証のチカラ:遠藤優子姉(家の教会しおん)

遠藤優子姉(家の教会しおん)

〜神様の種まき〜

 両親はノンクリスチャンですが、私は家の近くにあったキリスト教幼稚園に通っていました。その時の思い出は、人生の中で一番楽しかったのではないかと思うくらい光輝いています。日曜学校にも毎週必ず出席して、賛美歌を大きな声で歌ったり、優しいお兄さんやお姉さんと遊んでもらったりと楽しい思い出がたくさん残っています。そして幼心に、洗礼と呼ばれている「頭に水をジャブジャブかける」式を大人になったらやるんだろうなぁと思っていました。

 しかし父の転勤をきっかけにその場を離れ、それからまったくキリスト教に触れることが無いままに私は成人しました。

 小学生ぐらいのときでしょうか、恐ろしい夢を続けざまに見て、どうしても眠れなくなってしまったことがあります。そのときの「神様にお願いしたら眠れるよ」という母の何気ない一言で、毎晩神棚に向かって手を合わせるようになりました。子供の頃はのびのびと育っていたのに、大人になるにつれて、ちょっとした出来事ですぐに傷つき、くよくよと悩む心の弱い人間に成長していきました。心配事が増し神棚の前にいる時間も長くなっていきました。しかし、どんなに熱心に神棚に向かっても心に平安はありません。とにかく神棚の神様は私にとって怖い存在でした。「私が今日こんな悪いことをしたから、神様が怒ってこんないやなことを私にしたんだ」。私の思考回路は因果応報をもとに、いつも否定的な方向に回っていました。

 この精神的不自由さから何とか脱出しようともがいていた時、大学の先輩に誘われて、あるクリスチャンコミュニティーでボランティアをすることになりました。ここでは、すべての活動が祈りで始まり、祈りで終わります。この生活リズムが、私にとって、不思議なことに大変心地よく感じられました。

 私の滞在期間中、2名のアメリカ人も同じようにボランティアとして滞在していました。二人はとても熱心なクリスチャンで、私たちはよく3人で宗教の話をしました。日本の宗教に対する彼らの矢継ぎ早の質問にしどろもどろになっていると、彼らは私にこう言いました。「私たちの信じている神様は、いつも心の中に住んでいて、私たちのそばにいてくれるんだよ」。私はこの言葉を聞き、大きな衝撃を受けました。そして、心底彼らがうらやましいと思いました。

 今まで私が神棚の神様に向かって手を合わせても、自分の心の中に神様がいらっしゃるなんて感じたことはありませんでした。ましてや、いつもそばにいて見守っていてくれるなんて、彼らが信じているキリスト教の「神様」って一体…。笑顔で、まるで親しい友だちのことを話すように「神様」について語る彼らを見ているうちに、ふと私の奥底にある楽しかった幼稚園時代の思い出がよみがえってきました。そして思い出したのです、「あの時、確かに私は幼心に『神様』を知っていた」と。もう既に「神様」の御手の中で守られていたのだと。だから祈りを通して自分より大きな何かにゆだね、感謝して生きる生活リズムが心地よく、安らかに感じられたのだと気が付いたのです。幼いころに蒔かれたイエスキリストの種は、私が忘れてしまっていても心の奥底でしっかりと根付き、私を支えていてくれたのです。

 それから1年後、私は洗礼を受けました。私の心の中に神様が蒔いて下さった種が、何年もの時を経て芽吹いたこの不思議を思うと、神様の御業を賛美せずにはいられません。今は私も神様の種まきのお手伝いができたらと願っています。

(リバイバル新聞2007年2月18日号6面に掲載)